2022/07/05

連載『スポーツ情報って面白い!』⑫/言葉を紡ぐ 書いては消し、消しては書く

 研究室の窓から蔵王の山々が見える。夏、最高峰の熊野岳(1841㍍)の頂の辺りであろうか、山肌にはいつくばるように残っていた雪は日に日に消えていく。野面を伝い地中にたたえられた水はやがて川へとそそぎ、里におびただしいほどの恵みをもたらす。人ののどを潤し、草木は生え、田んぼや畑にはちからをみなぎらせる。雪渓はどことなく、技術革新が著しいデジタル社会において、昔ながらのアナログ思考で作業を進める人たちがいつの間にか隅へ隅へと追いやられていく景色に似ていなくもない。
 

 

乱筆乱文、いいじゃないか/悪筆ににじむ人柄


 学科の1年生を対象に開講する専門基礎科目『文章基礎(演習)』。今年は授業の進め方を大きく変えた。資料は印刷し配り、原稿用紙をいちいち手渡す。各自マイノートを用意するのは当たり前で、先ごろは1カ月余りにわたり新聞1面に載る「ニュース・インデックス」(主なニュースを知らせる案内コーナー)を毎日写し書きしてもらった。

 ペーパーレス? その正反対で紙、紙、紙、とにかく紙にこだわる。「次週まで〇〇字書いて来るように」。万事、こんなふうに課題提出の指示も出す。ある受講者は手をかざして言う。「またですか? もうペンだこできました。見てください、ほらっ」と。

 学生たちの手書き原稿一つ一つに目を通すと着実な成長を実感できる。授業で「原稿を書き終わってもそれでおしまいじゃない。必ず推敲するように」と口酸っぱく言っているのが効いたのか、消しゴムの跡はもちろん、二重線や文章挿入の箇所があちこちにある。当初は読み進めるのにかなり時間を要したが、授業の回数を重ねるうちにどんな悪筆も不思議なもので原稿の向こうに人柄がにじんできた。

 乱筆乱文、それもいいではないか。味わい深さがそこにある。冬、寒さで凍えた両手をたき火に持っていくと、少しずつ少しずつぬくまっていくときの感覚とでも表現すればいいだろうか。だからこちらも自筆の赤ペンで精いっぱい応える。

 この手触り感を獲得することこそが授業の主目的である。考えて刻んだ活字は中指のたこのように体にしみ込み、この先、頭で仮に忘れてもひょんなことで記憶の古層で踊り出すかもしれない。「あの日あのとき、暑い夏、書いては消し、消しては書き、めちゃくちゃなほど文章を書いたっけ」。こうなってくれたらいいな、とただただ願う。

共振せぬオンライン/実感伴わず歯がゆい


 コロナ禍は教育の現場を激しく襲った。授業は対面からオンラインへと大きくかじを切ることを余儀なくされ、学生と教員はリアルな世界で得られる「遊び」という欠かせぬ無駄を徹底的に排除しながら、必要最小限の情報を頼りにして「知」を培った。『文章基礎(演習)』の授業も例外ではなかった。毎回、グーグルのドキュメントにつづってもらった文章を添削し返却。すべてはオンライン上で完結した。

 「ここはこうするといい」「この言い回しは変だ。こうすると感じが違ってくるはず。分かった?」。オンライン授業は当初、実に手応えがあった。PCやタブレット端末の画面を通して、原稿の手直しと確認が瞬く間にできるのだから「何て便利なんだろう」と関心しきりの状態だった。

 しかし、時は移ろい、受け止め方は少しずつ変わっていった。これはこれで確かに実りをもたらすのだろうが、どこか何かがしっくりこない、とでも言えばいいだろうか。それが何かと問われても、自信を持って明解に即答できない。抽象的な物言いをすれば、現実世界で学生たちと共振してないせいか、多くのことに実感が伴わない歯がゆさとでも説明できよう。

 なかんずくドキュメントに書き込まれた文字の連なりは何と情趣のないことか。どれを読んでも、フォント、大きさが均一であり、何よりも筆圧をうかがうことはできない。誰もが一言一句に込めた思いはあるはずだろうに、それを目いっぱい酌んでやれないのは口惜しい。

長い間かけてつくってきた大切なものが潜む


 見知らぬ街を歩き目標地点へ行こうとするとき、スマホの「ナビゲーション」によく世話になる。交差点を右へ左へ、ビルの後ろや前へと導かれる。「鳥の目」でわが身を見れば、このときの自分は東西南北の感覚が失せ、脳の中の方位磁石も利かなくなっている。

 人は目新しいものには目がゆくものの、なぜか古くなったものには見向きもしなくなる。紙の地図は高さと距離感による三次元思考を促すはずなのに、目的地へ無駄なく行けるのであれば、そんなものはどうでもよくなり、虫となってはいつくばることもいとわなくなる。実はこの忘れ去られようとしている効能にこそ、人が長い間かけてつくってきた大切なものが潜んでいるような気がしてならない。

 言うまでもなくデジタル世界においては大量の情報が得られる。だから物知りになる。そこで立ち止まって考えてみたい。人よりも多くのことを知っているか知っていないかというのは、いわゆる競争である。だからビッグデータを分析活用するデータサイエンスは行きつくところ、情報に勝ち負けの価値観を持ち込む。
 国はいま、ICT教育の推進やらDX(デジタルトランスフォーメーション)の実現やらを高らかにうたう。その方針に何一つ異を唱えようとは思わない。鎌倉時代の随筆『方丈記』(鴨長明作)が冒頭で書いているように「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と、時代と万物が常ならぬさだめであることを十分に認識している。しかし、雪解け水が流れる大河の瀬に身を置いてふと思うのである。「得るもの」と「失うもの」。それはいったい何か。その正体をきちんと見極めなければ、新たな地平など切り開けるはずがない。

 傍らに活字が躍るノートと本。目の前には原稿用紙。こんなふうにして紡がれた言葉はいとおしく、必ずや未来への糧となる。ワンクリックや人差し指では挑めぬ荒野がある。

<スポーツ情報マスメディア学科 教授 日下三男>
 

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